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  <title>「不可能な人生」の修復</title>
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    <title>10</title>
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    <![CDATA[まず、仲佳子の作品について詳しく見ていきたいと思う。彼女の作品は、『月刊漫画ガロ』1968年10月1日(10)号から1973年7月1日(7)号 までの間に、<a href="http://blogs.yahoo.co.jp/y_sirais/19978061.html">「海ほおずき」</a>（1968年10月）、「養子」（1968年11月）、「新吉の散歩」（1969年2月）、「若草」（1969年6月）、「港町十三番地」（1969年10月）、「白い鳥」（1969年11月）、「白い顔」（1970年2月）、「ちちくり長屋」（1970年7月）、「たこつぼ」（1973年7月）の9作品が掲載されている。<br />
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入選作品である<a href="http://blogs.yahoo.co.jp/y_sirais/19978061.html">「海ほおずき」</a>を読むとわかるように、作品中に海ほおずきが描かれている箇所は一箇所もない。この話が追いかけてゆくシジミ売りの女が海ほおずきをならすのが「くせ」で、「口に ふたあっつもみっつも ほおばっていることが」あり、作品自体が冒頭とラストの彼女が海ほおずきを「ならしならし」歩くシーンに挟まれているにもかかわらず、彼女の口元には何もない。こういう、アールブリュットのような画風だと、海ほおずきをならしている口元をうまく描けなかったから言葉だけの説明ですませたのではないか、と推測することも一見可能に見えるが、私はそうではないと思う。海ほおずきを描くこと自体は、ナレーションで説明されているのだから、上唇と下唇の間にそれらしきものの線をちょっと付け足す記号的な表現でもすむ。が、それでは、2ページ目や11ページ目のような引きのショットだと、口元がすっきりせず絵的に美しくない。アップで海ほおずきをならす顔あるいは口元を描くのも、段取り的な説明になってしまう（5ページ目の2コマ目に息を切らす女の顔のアップがあるが、これは段取り的な説明ではなく、次の3コマ目と前の1コマ目を繋ぐ「間&lt;ま&gt;」としての役割を担っている）。何より重要なのは、「シジミ売りの女が ほおずきをならしならしやって来た」という場面の「ならしならし」の部分ではなく、「やって来た」（ラストでは「帰って行った」）ところに重点をおいて作者は描いたということであり、その方が作品としても良い。だから海ほおずきは描かれなかったのだと思う。その潔さは大変格好いい。しかし、3ページ目に「町中に入ると 帯の間にほおずきを仕舞い」とあるように、彼女は海辺でしかほおずきをならさないし、彼女の家は海辺にある（11ページ目のナレーション）。シジミを売る彼女自身が、巻貝の卵嚢である海ほおずきの別の姿なのかもしれない。そういう意味では、海ほおずきはちゃんと描かれている。彼女がどこか人間離れした純粋さを持ち合わせているように見え、人の死にあれほど驚き、出産に立ち会うことになって「生きるということはええことやのし」と言うのも、彼女自身が、海ほおずきが別の姿になったという生のエネルギーそのものだからとは言えないだろうか。最後に一点、産婆の、肘を上にして腕を垂直に立てる腕時計の見方は、とても良い。その良さには合理的な理由はないから、批評が下す良さではない。かといって芸術としての威圧的な良さでも、皆に好かれるようなもので根回しされた良さでもない。このポーズの持つ良さは、恐らく、漫画表現が持つ核心の部分に触れるものへの道筋の一つを示しているように私には思われる。]]>
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    <category>コラージュ散文</category>
    <link>https://kounotori0.blog.shinobi.jp/%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%A5%E6%95%A3%E6%96%87/10</link>
    <pubDate>Fri, 10 Jun 2016 03:15:26 GMT</pubDate>
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    <title>9</title>
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    <![CDATA[印象に残っている同級生の三人目は、小川さんというドッジボールの強い女の子でした、と<a href="http://www.cocolog-nifty.com/error/404">「不可能な人生」</a>のサイトの主はさらに続けていた。けれども、小川さんの話は作品という形で<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%AD_(%E9%9B%91%E8%AA%8C)">漫画</a>にしたので、ここで重ねて書くつもりはありません。私の中では小川さんについてはそこで描ききったという感覚があるので、フォーマットの違う表現形式をどこか宙ぶらりんのまま無理矢理リンクさせるのも致し方ないことなのです。 <br />
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と、ここまで<a href="http://www.cocolog-nifty.com/error/404">「不可能な人生」</a>のサイトを復元したとき、私は、ネット上にないもののリンクをどう張るか、という問題に直面した。<a href="http://www.cocolog-nifty.com/error/404">「不可能な人生」</a>というサイトの復元は、<a href="http://www.cocolog-nifty.com/error/404">「不可能な人生」</a>というサイトのみを復元すればいいのだから、ネット上にないもののリンクなどはじめから問題にならないというのが普通の考え方ではあるが、私はそれでは完全な復元にはならないと感じていた。復元という行為は、一度失われたものを、それが最初に作られた過程を逆に辿るという対称性を持ったものではない。何よりも最初と復元とでは、行為を行う者がたいてい別の人間であるため、最初に作られた過程よりもはるかに非本質的な労力をかけざるを得ない上、どう頑張っても元通りにはならないであろうという結果も見えている。<a href="http://www.cocolog-nifty.com/error/404">「不可能な人生」</a>のサイトの書き手は、小川さんの話を漫画で作品という形にしたという前提でこの記事を書いている以上、その作品を少なくとも私は読まなければ、よりよい復元には近づけない。なので、上記の文章中の「小川さんの話は作品という形で<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%AD_(%E9%9B%91%E8%AA%8C)">漫画</a>にしたので」という部分の「<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%AD_(%E9%9B%91%E8%AA%8C)">漫画</a>」にリンクされている『月刊漫画ガロ』を私はすべて買い集めた。リンク先の説明にあるように、廃刊になって久しいこの月刊漫画誌は、途中に休刊を挟みながらも38年ほど続いており、2・3月合併号というパターンを考慮すると少なくとも年に11冊の38年間という単純計算でも、400冊以上はあることになる。そのすべての漫画作品に目を通して私なりに検討を重ねた結果、仲佳子と佐藤義昭という二人が復元の材料として私のアンテナに引っ掛かった。この二人の漫画のはっきりとどこという風に指摘はできないが、彼らの作品の読後感に、小川さんの話をあるいは<a href="http://www.cocolog-nifty.com/error/404">「不可能な人生」</a>のサイトを彷彿とさせるようなシャーマニズム的連関を嗅ぎ取ったのだった。]]>
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    <category>コラージュ散文</category>
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    <pubDate>Wed, 08 Jun 2016 05:25:20 GMT</pubDate>
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    <title>8</title>
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    <![CDATA[印象に残っている同級生の二人目は、川上さんよりももっと近所に住んでいた田中さんでした、と<a href="http://www.cocolog-nifty.com/error/404">「不可能な人生」</a>のサイトの主は続けていた。とは言っても、田中さん自身についての印象はほとんどなく、夏休みに地域で行われる小学生のドッジボール大会の練習で遠目に見かけたイメージしか私の記憶には浮かんできません。そういう記憶の中の彼女は、水面近くに来たかと思うとまたすぐに潜ってしまうすばしっこい魚のように、一瞬の確かさと同時に小さく隠れやすい特徴を持っているのです。私は恐らく母から、田中さんの父親が自分の妻を刺して捕まったという話を聞いたと思います。家庭や学校、地域内でのこの事件の扱いは、当時の私にははっきりとつかみきれないにもかかわらず、決定的に覆いかぶさる暗いものだということは感じていました。決定的に覆いかぶさるのは、もちろん一人取り残された田中さんの上になのですが、それが延長されて私自身の上にも及ぶような怖さがありました。私は、何度か田中さんの姿と一緒に、その瞬間の彼女の父親と母親の姿も勝手に想像し、自分の中で事件の実在性を得ようとしました。しかし、見たこともない彼女の両親による詳細のよくわからない事件の再現シーンは、型通りの修羅場とはいえ目に浮かぶのに、そのときの田中さんの姿はどうしても想像できませんでした。彼女だけは、遠目で見かけたいつもの彼女としてしか想像したくなかったのかもしれません。みな示し合わせたようにこの事件のことは何も言わないようにしていたと思われるのですが、私だけでなく、この事件を耳にした子どもの大半が、田中さんと自分自身を重ね、これが自分の両親だったら、取り残されたのが自分だったらという仮定が、ほんの少しの誤差のようなズレさえあれば実体となって自分を捉えに来ることもあり得ると、ゾッとしたに違いありません。私には、その事件後の彼女の消息に関する記憶は全くありません。そういう意味で田中さんの存在は、この前原という町のイメージに大きな暗い影を投げかける重要な役割の一端を担ってもいるのです。]]>
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    <category>コラージュ散文</category>
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    <pubDate>Mon, 06 Jun 2016 03:57:48 GMT</pubDate>
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    <title>7</title>
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    <![CDATA[<a title="" href="//kounotori0.blog.shinobi.jp/File/6bc1933c.jpeg" target="_blank"><img alt="" src="//kounotori0.blog.shinobi.jp/Img/1464787655/" /></a> <br />
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<a title="" href="//kounotori0.blog.shinobi.jp/File/img141.jpg" target="_blank"><img alt="" src="//kounotori0.blog.shinobi.jp/Img/1464787610/" /></a> <br />
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子供の頃の自分を思い出すとき、昔見たような気がする幽霊を思い出すときの感覚に近いのではないかと思います、とは言っても、私は幽霊を見たことはないのですが、と<a href="http://www.cocolog-nifty.com/error/404">「不可能な人生」</a>というサイトの主は続けていた。それは私が、内面では大人しくなかったものの、外面的には影が薄い子供だったせいだからでしょうか。それとも、遠い昔の記憶というもの全般が、例外的な瞬間を除いて、ぼんやりとした薄靄の向こう側を幽霊たちの住まう世界に見せるからなのでしょうか。仮にそうだとしても、それだけでは幽霊の持つ、手の届かない領分の不可解なイメージは喚起され得ないでしょう。あの頃の私と今の私とは同じだけれど、どこかで一度切れていて、その繋ぎ目も何かがずれてしまっているように思えてなりません。そこからくる不安は、小さな紙魚ほどの寄る辺ない子供の私と、大人になって久しぶりに前原を訪れたときにはすでに失われてしまっていた子供の頃の前原とが本当に存在したのかという、今ではもう存在しないものの存在が、むしろ逆に現在の私のほうこそを幽霊にしている、と私に気づかせもするのです。子供の頃は特に何をするわけでもないのに自分がそのまま自分であり、何もわかっていなくても、あるいはわかっていないからこそ、自分であり得た気がします。他人に何かストレスを覚えることを言われても何も言い返さない、言い返せない、自意識というものは、きっとそういうものでいいはずなのです。それ以上の存在感を得ようとすると、幽霊が発生するのでしょう。幽霊といえば、私が二年生のときに転入した<a href="http://www.city.itoshima.lg.jp/site/maebarushou/">前原小学校</a>では、物置にしまわれている二宮金治郎の銅像が夜中に校庭を走り回る、といううわさがあったことが連想されます。けれども私はその銅像を見たことはなく、それがあるとされる物置がどこを指しているのかすら知りませんでした。それは、不可解な銅像の話ではなく、銅像の幽霊の話だったように思います。この町で印象に残っている同級生が三人いるのですが、三人ともぽつんぽつんと途切れ途切れのピアノの音のように物質的で、何のメロディーも形作らない単独性を帯びて私の記憶にあるのです、と<a href="http://www.cocolog-nifty.com/error/404">「不可能な人生」</a>というサイトの主は述べていた。そのうちの一人が川上さんです。彼女と親しくなったきっかけはわからないのですが、二人で交換日記をしていたことは覚えています。私が転入してきた小学校二年生から、児童数の増加で分校になり別々の学校に通うようになる前の四年生の間のうち、どれだけの頻度でどれだけの期間続けていたのか定かではありませんが、少なくはない量のオリジナルマンガをお互いに描いていました。オリジナルといっても、互いが飼っているハムスターや文鳥の他、飴玉や枕等、身近でフォルムの単純なものをキャラクター化し、何ページかのストーリーに仕立て上げた他愛のないものだったと思います。リレー形式で作品を繋げていく描き方もしていたようで、どんなに単純なものでも他人が作り出したキャラクターを自分の自由に動かすという、わくわくするようなよそよそしいような不思議な違和感は、今でも私の中に残っています。けれども交換日記にまつわる記憶で最も忘れがたいものが、私が模写した既成のマンガ作品を、川上さんが私自身の作品だと思った事件でした。そのマンガは、確か小田空の「空くんの手紙」のうちの一話だったような気がします。おそらく私は、子供ながらにその話にとても感銘を受け、まるで、自分や世界がこうあってほしいという願望を、最もいい形で表現してくれているように感じたのだと思います。だから、川上さんがこのマンガを褒めてくれたことを自分のこととして受け取ったことが盗作行為だという自覚は、あまりなかったように思います。結局はそれが、私の丸写しであったことが彼女にもわかったのですが、彼女が自分を騙したといって怒ったり、私を責めたりした覚えもありません。オリジナルか否かという問題の前に、何かにはっとすること、何かをいいと思うこと、何かに心を動かされることからくる開け（ひらけ）のようなものの入り口しか、私たちにはわからなかったのかもしれません。川上さんの家は小さな木造の平屋で、プクという名の白い犬を飼っていました。その家の前に鎖に繋がれて座るプクの写真を私はなぜか持っていて、交換日記のマンガにキャラクター化されていたプクというハムスターは、本当は犬だったのか、それともハムスターが死んだ後飼われた犬がその名を引き継いだのか、はっきりわかりません。彼女の父親は個人タクシーの運転手をしており、母親も働いているようで、家に遊びに行ってもいつも彼女がひとりだった印象があります。今となっては私の盗作事件の後のことのように思えてならないのですが、交換日記以外に彼女がノートに描いていたマンガを見せてもらったことがありました。それは彼女が言うには、従姉にいろいろと教えてもらったことを参考にして描いた、エロマンガでした。エロマンガといっても、小児期のリビドーを不器用に表現した、大胆不敵でどこかユーモラスな作品だったと思います。それでも私は、彼女がそういう自分の中身の一端でも他人に見せるという行為ができることに驚きと畏怖の念を抱き、交換日記にあった楽しさがそれには感じられなかったことに戸惑いました。そして彼女が導くまま、布団の積まれた押入れの中に二人でこもり、暗くなっても姿が見えないことを心配した双方の親たちが探している気配がするにもかかわらず、じっとしていました。そのとき彼女は、大人はこういうことをするのだと私の指を舐めまわし、上目づかいにじっとこちらの様子をうかがっているのでした。私は、親の怒りを最小限に抑えたかったのですが、学校での彼女とは違う奇妙な気迫に押され、彼女の許しが出るまでずっとそこから出られないような気がしていました、と<a href="http://www.cocolog-nifty.com/error/404">「不可能な人生」</a>というサイトの主は告白していた。]]>
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    <category>コラージュ散文</category>
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    <pubDate>Wed, 01 Jun 2016 13:34:24 GMT</pubDate>
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    <title>6</title>
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    <![CDATA[<a href="//kounotori0.blog.shinobi.jp/File/bebaa20f.jpg" target="_blank"><img alt="" src="//kounotori0.blog.shinobi.jp/Img/1354884828/" border="0" /></a>&nbsp;<br />
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福岡県糸島郡前原町に祖父母と祖母が折半して購入した家は、それこそ鰻の寝床のような細長い平屋でした、と<a href="http://www.cocolog-nifty.com/error/404">「不可能な人生」</a>というサイトの主は続けていた。平屋の手前は三角形の空き地になっていて、膝丈にまで達する蒼々とした雑草が繁茂していました。空き地の真ん中には、それほど大きくも小さくもない子供の遊び場にうってつけのネムノキが一本生えていました。夜になると葉を閉じて眠るのだと誰か大人に教えてもらった私は、風変りではあるけれど意外と目立たない花にはほとんど注意を向けず、その不思議な葉の下で一番よく上る太めの枝が擦れて白光りするほど、近所の子供たちと何度もそこへ上ったりそこから飛び降りたりしました。今でもあの枝振りと、白光りする枝に上ってまばらに踏み均された雑草を見下ろした時の光景が目に浮かびます、と<a href="http://www.cocolog-nifty.com/error/404">「不可能な人生」</a>というサイトの主は記していた。あともう一つ、この町で好きだったものは、首輪に大振りの鈴をつけ、いつも独りで散歩をしているダルメシアンに似た犬でした。その犬は一帯の子供たちにチロちゃんと呼ばれ（その謂れは鈴の音の擬態語だったような気がします）、独特の鈴の音が、彼の姿がまだ見えないうちから彼の訪れを告げていました。チロちゃんは恐らく老犬だったと思われ、彼の緩慢で最低限の動作からなる日課の散歩を邪魔する子供は一人もいませんでした。ただ人間と犬とが、お互いに気にかけている様子を多少とも示し合う程度でした。しかし、昭和50年代半ばのその町は、全くのよそ者ならば小学生でも察知するくらいの、とは言え言葉でははっきり捉えることのできない一種の暗さをまだ持っていました。その暗さとは、30年後に私が東京で体験した金環日食のような、マグリットの「光の帝国」のような、光と闇のバランスが取れていないような不安定さからくるものでした。平成3年発行の『前原町誌』を紐解くと、私たち家族が転入してきてまた次の土地へ転出していく間の昭和57年には解放センター隣保館が竣工し、翌58年に筑肥線が電化され福岡市営地下鉄と相互乗り入れ（筑前前原～博多間）が開始しています（電化前は、車両のドアを自分で開ける方式で都内にはなかったため、ひどく呑気に感じた記憶があります）。解放センター隣保館が竣工した頃、隣のブロックにある<a href="http://www.city.itoshima.lg.jp/site/maebarushou/">前原小学校</a>に2年生から4年生まで通っていました。しかし当時は、あからさまに色眼鏡をかけてみせる近所の子供たちや小学校の児童たちという集団に慣れようとするのに汲々としていて、あるいは新しい環境や祖父母との同居から両親が受けるストレスの発散のとばっちりにじっと耐えるのに精一杯で、解放センター隣保館が一体どういうものか、それどころか解放センター隣保館の存在すら気づいていませんでした。ただ、その竣工前後その辺りに「同和対策」という手書きの大きな看板が古い建物にかかっていた記憶があります。小学生の私には覆いかぶさってくるような「同和」の文字が、意味も分からずけれども何となく予感できる薄暗い過去の陰を伸ばしているように思えました。今思えばこの町で暮らした五年間は、外輪の周縁に沿った細い道を、ゆっくりバランスを取りながらとぼとぼ歩いている、そんなイメージです。九州の、昔は部落と呼ばれていた地域に外部からやってきて、いつまでもしつこく溶け込めずに一番外側をぐるぐる回っているだけ。しかもこの町は、私の母が幼い頃、その母と姉たちと一緒に東京から疎開してきたところのすぐ傍でもありました。時間軸を巡っても同じ周囲を回っているのです、と<a href="http://www.cocolog-nifty.com/error/404">「不可能な人生」</a>というサイトの主は記していた。<br />
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    <category>コラージュ散文</category>
    <link>https://kounotori0.blog.shinobi.jp/%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%A5%E6%95%A3%E6%96%87/6_161</link>
    <pubDate>Fri, 07 Dec 2012 12:58:10 GMT</pubDate>
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    <title>5</title>
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    <![CDATA[最近は、集団の輪の内側と外側のことをよく考えます、と<a href="http://www.cocolog-nifty.com/error/404">「不可能な人生」</a>というサイトの主は続けていた。私は輪の外側の人間であり、今まで私の他に外側の人間に会ったことがないということに、段々確信を持つようになってきたのです。高島平という、それまでの地縁・血縁・職縁が取り払われ地均しされた開拓地に生まれ、その後平均で五年ごとに引越しを繰り返すという状況にあった私は、単によそ者という意味では外側の人間だと自分でも思っていましたが、年を取るごとに出会う人のパターンも定まり、どんなに普通でない人もみな内側の人間であることが分かるにつれ、それはもっと規模の大きな、一生どこに行ってもよそ者でしかないという、他者との決定的な違いが最初からあったことを意識し始めたです。それからは、輪の外側を中心に据え内側を補助線にして考えてみようとは思っているのですが、違和感を感じながらも内側を中心に、というか、内側しかないとずっと教えられてきたため、いくら外側の人間である私にも骨の折れる切り替え作業でした。それはむしろ、内側にいる外れ者のほうがうまくできることなのです、内側という揺るぎない基盤に乗りながら、外れ者としての自我を出していけばいいのですから（その分風当たりは強いでしょうが）、と「不可能な人生」というサイトの主は書いていた。今までは、当然のように内側に入りたいと思わされてきました、思わされていることを自発的にそう思っていると勘違いしながら。私以外の全員が内側であるなら、私の存在は誤差であるためそれは無理もないことと言えますが、発想を他者中心的ではなく自己中心的に逆転させ、正常に戻してみるべきなのです。つまり、内側のほうからやってくる強制力を集団のおかしさと捉え、誤差の側から広大で強力な内側を見直してみるということです。まず、内側の人間は、外側はないと思っています。永遠というものが人間にとっては実際無いのと同じように、外側という言葉はあってもあくまで言葉だけの存在であり、実際は無いと考えているのです、自分たちにとってあまり都合のよくない人間を「外道」「外部」等として取り込んだり、内側の変わり者が他の人間と一緒にされたくなくて自分は「外側」の人間だと反抗的に口にしたりする以外は。要するに、みんな一緒だよ、と言っているのです。これは、内側に入りたいと思わされてきた外側の人間にとって、ハニートラップのような甘い罠でした。罠に誘われ調子に乗って内側に近づき過ぎた途端、おまえと俺たちを一緒にするな、さっさと出ていけと弾き出されるのがオチなのです。一緒だと言っておいて違うと突っぱねれば、自分たちがコントロールしているように装えるため、外側の人間に対しても外側に置き去りにしたまま影響力を持つことができます。内側である＝集団になるということは、それだけで圧力を持つことなのです。その圧力は外側に対しては、常に巨大で強力な磁石の壁のように作用します、絶対に中には入れませんが、見えなくなるほど遠くまで外側の人間を自由にさせることもなく、無意味に引付けておこうとするのです。一方、内側に対しては、何か問題が起こると普段は目に見えない輪をぎゅうっと縮め、狙った人間を完全に囲い込むという圧力を加えます、と「不可能な人生」というサイトの主は述べていた。外側の人間の常識として、内側に入るとき私は外側の人間ですよと誇示しながら入ることはしません。なるべく内側の人間のふりをして、目立たないようにして入ります。良くも悪くも目立てば彼らに突っ込みどころを与えるだけであり、一度そうなってしまえばたった一人の外側の人間など何も成す術はありません。本当に、日常生活の中で、頭の天辺からつま先まで、今いる周りの見知らぬ三次元空間に自分だけ二次元の紙みたいに貼りつけられたような違和感と頼りなさを感じたことのある人はいるのでしょうか。それは疎外感などという優雅なものではなく、疎外そのものなのです。私は、内側のひねくれ者・変わり者をずっとうらやましく思っていました。内側にいながら自由で（と、子供の頃は思っていましたが、その実、内側にいるからこその保証と制裁のある自由だったのですが）、どんなに奇人・変人臭を出しても私のように疎外されることはなかったのですから。そして疎外感というものを優雅に感じることができるのは、正にこういった内側の奇人・変人たちであり、それは、みんなが他人と差をつけたがる個性というものの勲章にしか私には見えませんでした。個性とか自分らしさとかをのうのうと語っていられるのは、内側の人間だけです。外側の人間は今のところ私一人ですが、それは個性ということとは本来は別次元なのです。たとえ私一人だけに言えることであっても、まず他の人には全く分からないし、私の性格とか人間性とかとはぴったり一致しない見えにくさもあるので、私だけの妄想と区別がつかないのは確かです。とはいえ、外側の人間であるという立ち位置が、私の性格や人間をある程度特徴づけてもいるはずであり、そのわずかな違和感を嗅ぎ取るのか、頭や勘のいい人、内側の外れ者といった人とは確かに縁があります。内側ど真ん中の人間とは恐らく、一生ニアミスすることすらないでしょう。そして、外側の人間が内側の情報を得たり、内側と接触したりするのは、あくまで内側の人間を通してであり、私が直接内側に介入したり働きかけたりするのは双方にとってルール違反です。最近はそういうようなことを、孤独の言い訳にしています。<br />
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    <pubDate>Thu, 04 Oct 2012 03:44:09 GMT</pubDate>
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    <title>4</title>
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    <![CDATA[たいていは悪いことばかりが想起されます、と<a href="http://www.cocolog-nifty.com/error/404">「不可能な人生」</a>というサイトの主は記していた。<span style="font-size: 10pt;">悪いことばかりが想起される、というよりも、悪いように解釈しやすい過去の出来事によって、絶え間ない現在の忘却を一時停止させようとしているかのようです。けれども悪い思い出は、現在の忘却どころか、現在そのものを壊しかねない静かな暴力でもあります。良い思い出にも忘却の一時停止作用はありますが、悪い思い出と違い、古い忘却（良い思い出）によって新しい忘却（現在の無自覚）を忘却しているようで、これもまた怖さを覚えます。しかし、現在の何を忘却しつつあるのか、忘却の一時停止が何になるのか、いずれすべてが忘却に付され滅び去るとするなら、想起は無意味なことではないのかと考えたりもしますが、いずれ必ずみんな無くなることに、ゆるぎない安心感を覚えるのも確かです。とりあえずは<span style="color: rgb(31, 73, 125);">、</span>自分や周囲の人々が生きているうちはまだ記憶は滅亡していないということになるので、忘却の堰き止めによって何か底のほうに沈んでいたものが、落としたまま忘れていた宝物のようなガラクタが、浮き上がってくるのではないかという、子供じみた期待を持っても構わないと思っています。そうやって、想い起こしを繰り返しながら滅亡の観察に勤しむのは、健康のために栄養を摂ったり栄養を省いたりしながら、なるべく元気に死んでいこうとする老人ともそう変わらないでしょう。精神的引きこもりで、友達らしい友達のいなかった子供の頃の私は、いつ終わるとも知れない毎日をどうやって過ごしていたのだろうと、今さら心細く思い返したりします、と「不可能な人生」というサイトの主は書いていた。私の性質というか私という人間というか、そういうものをじっくり見てくれる人などいませんでした。今でもそう変わりはありません。この間、あなたは例外であろうとするね、と親しい人に言われました。その言葉の裏には、あなたは例外じゃないよ、という示唆があります。確かに彼にとって例外は私ではなく彼自身です。みんな自分の例外性を見いだし保存するのに精一杯です。自分の例外性を理解しやすくするには、他人をおしなべて一様に捉えるのが一番手っ取り早い方法なのです。それでも、他人が見ても彼は本当に例外で、私は例外じゃないということもわかっています。けれど、他人が何と言おうと大切なのは、本質的には例外などない社会や集団の中で、自分が自分であろうとしていることであって、例外/非例外の観念も全体の一部として含みます。私は一つ一つ、暗くてか細い自分の感覚の先端照明に照らし合わせながら拾い集めるしかありません、私が私だと思っているものから注意深く他人の同意や同情を得られそうなのでとっておいた部分をごっそり取り除き、むしろ他人にとってはゴミに過ぎないものを。</span>]]>
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    <category>コラージュ散文</category>
    <link>https://kounotori0.blog.shinobi.jp/%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%A5%E6%95%A3%E6%96%87/4</link>
    <pubDate>Wed, 01 Aug 2012 03:50:42 GMT</pubDate>
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    <item>
    <title>3</title>
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    <![CDATA[<a href="//kounotori0.blog.shinobi.jp/File/6994c368.jpg" target="_blank"><img alt="6994c368.jpg" src="//kounotori0.blog.shinobi.jp/Img/1327026840/" style="border: 0px solid currentColor; width: 150px; height: 99px; float: left;" /></a><br />
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<a href="//kounotori0.blog.shinobi.jp/File/7c9c8bbc.jpg" target="_blank"><img alt="7c9c8bbc.jpg" src="//kounotori0.blog.shinobi.jp/Img/1327026856/" style="border: 0px solid currentColor; width: 111px; height: 150px; float: left;" /></a><br />
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後に大友克洋が高島平団地を舞台に「童夢」を描きましたが、私は高島平でのことをほとんど覚えていません、と<a href="http://www.cocolog-nifty.com/error/404">「不可能な人生」</a>というサイトの主は記していた。団地内に、はるみちゃんという一つ年上の遊び友達がいて、その子の家にはピアノやフランス人形やシャンデリアや華やかな絨毯があり、「舶来品」とか「バタ臭い」という言葉を型どおりに連想させ、これも型どおりに私の両親がそれを羨みと妬みで眺め、子供たちは浮間幼稚園というところに通っていたらしいということぐらいしか思い出せません。それも後になって、運動会やクリスマス会、多摩動物園への遠足といった、アルバムの写真を見てから覚えた思い出である部分のほうが多いはずです。昭和53年と手書きのある高島平団地内の子供たちの写真のは恐らく、福岡へ引っ越す直前に記念として撮られたのではないかと思います。その側には、浮間幼稚園年少組の修了記念写真（昭和53年3月）があり、同年の4月の年度始めに合わせて転居したと推測します。引っ越した先は、福岡市の室住団地でした。二級河川室見川の川沿いに建つ室住団地は、昭和45年に入居が始まり2200戸ほどの規模だそうです。入居の翌年に開園した室住幼稚園は団地内にありましたが、定員オーバーを理由に、しばらく入園を待たされることになると母がぼやいていたのを聞いた記憶があります。しばらくと言っても1～2か月と思われ、父の日の行事にはじゃがいものような父の似顔絵を胸に掲げ、首にできた汗疹にシッカロールと包帯を施した私の姿がアルバムに残っています。しかし正直言って、浮間幼稚園と室住幼稚園の記憶は双子の姉妹のように、すぐにお互いが入れ替わり重なり合い交錯して見分けがつかなくなってしまいます。まるでその頃の私の記憶が思い起こされまいとして、するりするりと逃げ回っているような具合なのです。と、ここまで書いたとき不意に、おそらく室住幼稚園で、緊張と不安からみんなの前でおしっこを漏らしてしまったことがあることを思い出しました、と「不可能な人生」というサイトの主は記していた。福岡という地方都市にあり、高島平に比べれば、かなりこじんまりと素朴に見える室住団地に於いては、入居開始から8年という期間は地域の輪ができるには十分だったと思われます。そこへ、よく分からない「マンモス団地」から来たと言っているような家族に、輪はほぼ閉じたままだったのではないでしょうか。そのときから、以後ずっと付きまとう寄る辺なさが、私や両親を取り囲んだのではないかと想像できます。ただ、これも団地内にあった公民館で子供向けの絵画教室に通っていたことの印象は、幼稚園に通っていた印象よりも強いものがありました。泳げるようになればなるほど上級クラスの深いプールへ回され、緊張や不安を持つ暇もなくただ必死で泳ぐだけだった水泳教室と同様、両親のすすめで始めたのですが、クレヨンや水彩で絵を描くことは私にとっては格好の一人遊びだったのかもしれません。絵画教室に友達がいたのかどうかは全く記憶にありません。記憶にないので、いなかったのではないかと思うのですが、アルバムのお遊戯や遠足、クリスマス会、運動会といった記念写真を見ても、ほぼ何の思い出も持っていないのに、絵を描きに教室へコツコツ通ったような何かをしていたような感触は、微かですが残っているのです。センスや才能とは関係なく大人になってからも私が絵を描き続けているのは、小さい頃のこのひたむきさを繰り返したいという単純な衝動によるところが大きいのかもしれません。室住幼稚園を卒園し、昭和54年4月に室住団地のすぐ側にある<a href="http://www.fuku-c.ed.jp/schoolhp/elarita/">福岡市立有田小学校</a>に入学しました、と「不可能な人生」というサイトの主は記していた。HPを見てみると、有田小学校は昭和50年に他の小学校の分離校として創設され、昭和56年には福岡市第一のマンモス校になったようで、その翌年には有住小学校が分離開校しています。第二次ベビーブームの子供だった私は、どこへ行ってもたくさんの同世代に囲まれていたわけですが、ほとんどその大きな輪の中に入ったという感触はありませんでした。高島平でずっと育っていたとしたら、輪の存在に気づいたとしても切実には感じない落ち着いた東京人になっていたことでしょう。かといって、幼少期を過ごした当時の高島平は、まだゼロから出発したばかりの頃で、入居者のほとんどが共稼ぎの若夫婦だったといいますから、田舎のような広がりや力を持った輪はまだ存在していなかったと思われ、そのためか私もそこを生まれ故郷とする積極性がほとんど無いのです。生まれ故郷だと他人や自分に言うには、何も無さ過ぎるのでした。有田小学校も1～2年しか通うことはありませんでした。県内にいる父の両親と同居するため、糸島郡前原町（現在は糸島市）に父母と祖父母が共同で家を買い、そちらへ引っ越すことになったからでした。ですから、室住団地での思い出もほとんどないのですが、ただ一つ、近くを流れる室見川が大雨だか台風だかで氾濫し、団地の周囲まで浸水している中を、長靴をはいて必死に小学校へ向かった記憶だけがぼんやり残っています。なぜそんな状況でそういう行動をとっていたのか、前後の脈絡は途切れたまま、とにかく行かなければ怒られるという緊張感が思い出されるだけです。　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　]]>
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    <category>コラージュ散文</category>
    <link>https://kounotori0.blog.shinobi.jp/%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%A5%E6%95%A3%E6%96%87/3</link>
    <pubDate>Fri, 20 Jan 2012 02:29:34 GMT</pubDate>
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    <title>2</title>
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	<a href="//kounotori0.blog.shinobi.jp/File/63dafc1e.jpg" target="_blank"><img alt="63dafc1e.jpg" src="//kounotori0.blog.shinobi.jp/Img/1323595186/" style="border-width: 0px; border-style: solid; width: 107px; height: 150px; float: left;" /></a><br />
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	<a href="//kounotori0.blog.shinobi.jp/File/c66a256b.jpg" target="_blank"><img alt="c66a256b.jpg" src="//kounotori0.blog.shinobi.jp/Img/1323583208/" style="border-width: 0px; border-style: solid; width: 150px; height: 99px; float: left;" /></a><br />
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	<a href="//kounotori0.blog.shinobi.jp/File/f5a710d8.jpg" target="_blank"><img alt="f5a710d8.jpg" src="//kounotori0.blog.shinobi.jp/Img/1323583233/" style="border-width: 0px; border-style: solid; width: 150px; height: 103px; float: left;" /></a><br />
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	つまり、全体の中で自分はどういう人間だったのか、ということです、と今では無くなっている<a href="http://www.cocolog-nifty.com/error/404">「不可能な人生」</a>というサイトの書き手は記していた。自分が投げ出された環境や条件や文脈にどっぷり浸かって、主人公にしろ端役にしろ時代を担う一人としての歴史ストーリーをつなぎ合わせるのではなく、その時々に人々が見ていた歴史の底にたまった沈殿物のような澱を今の私という個人が抽出し、私自身の澱と照らし合わせつつ保存するのです。私は1972年（昭和47年）に生まれました。1972年は、最後の日本兵・横井庄一がグアムの密林から帰還し、浅間山荘事件が起こり、沖縄がアメリカから返還され、中国との国交が正常化し、田中角栄の『日本列島改造論』がベストセラー、スマイルバッジが人気となった年だそうです。その年に入居が始まった東京都板橋区の高島平団地が、私が生まれてから6歳近くまで過ごした家でした。以下は、高島平団地について<a href="http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20080416/153233/?rt=nocnt">「日経ビジネスオンライン」の2008年4月22日の記事</a>から抜粋したものです、と「不可能な人生」というサイトの主が引用をしていた。<br />
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	　日本住宅公団（現UR都市機構）が開発し、1972年から入居が始まった高島平団地は、マンモス団地の象徴だ。日本一の高層団地として脚光を浴び、田中角栄、福田赳夫、大平正芳ら歴代首相をはじめ多くの政治家が、高島平という大票田で「第一声」を上げている。第一次石油ショックで生活必需品欠乏の風評が高まったとき、いち早く米やトイレットペーパーなどの物資が投入された団地でもある。政府は、都市部のモデル団地への対応を通して品不足のデマを封じ込もうとした。<br />
	　一方で「自殺の名所」という嫌なキャッチフレーズもつけられた（少なくとも180人以上が飛び降りたようだ）。いまは建物の外廊下にもコンクリート柵が設けられている。さまざまな意味で時代の風を浴びてきた団地である。<br />
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	確かに「マンモス団地」という言葉には聞き覚えがあり、小さい頃恐らく父が高島平団地を表現するときによく口にしていたような薄い記憶が浮かんできました。また、第一次オイルショックに伴う買占騒動の体験談を、両親から聞いたこともありません（それよりも断水騒動で、母がポリタンクに給水をしに並んだときについていったのか、そのときの光景のほうが印象に残っています。もっとも、それは高島平ではなく、後に住んだ福岡の団地での出来事なのかもしれませんが）。高島平団地が「自殺の名所」と言われたのは、私たち家族が引越した後になってからであり、とにかく私が幼少期を過ごした時期には、日本の高度経済成長を視覚化したような巨大団地には、不自然なほど陰が存在しなかったのではないかと思います。私の生まれてから幼稚園までのアルバムを見ても、30年以上前であるにもかかわらず現在の風景と変わらない団地内の様子が写し出されています。ただ、子供たちの着ている洋服のデザインに時代を感じるだけです。最近になって私は、高島平団地の建設当時の古い写真をネット上で見つけ出すことができました、と「不可能な人生」の書き手は記していた。それは、板橋区のサイトで、<a href="http://www.city.itabashi.tokyo.jp/c_kurashi/038/038839.html">こうぶんしょ館電子展示室67号「高島平団地ができたころ」</a>という説明書きに添えられていました。その中の一枚、高島平団地遠望（昭和47年）というモノクロ写真を見て、私が自分の幼少期に抱いてきた個人的な思い出の印象が、同時期（昭和47年から53年辺りまで）の日本全体の中に置いてみると、当然ではありますがかなり小さく偏ったものであることに初めて気がついたのでした。モノクロ写真の中で、現在と変わらない表情をしているのは高島平団地だけであり、すぐ周囲の写真の手前に写っている家屋の陰には、戦後の空気が籠もっているのが見えてくるようです。私は、恐らく、高島平団地内だけで日常を過ごしていたのでしょう。このような古い家屋（といっても、当時はそれが一般的だったのかもしれません）は、祖父母の田舎の家しか記憶に残っていないのです。同じページのもう少し下の方には、高島平団地を上空より望む2（昭和47年）というこれもモノクロの写真があり、そこに写っている作りかけの地上の団地は、まるで箱庭のようです。私は、この白い巨大な箱庭の中でコントロールされた状況を出発点に、その平板な風景がずっと続くことを疑いもせず歩いてきたようなものでした。高島平団地は、私が住んでいた当時は過去を地均しし、ミュージアム的に均質化された生活空間を演出することで自分たちの見たい未来を媒介する存在だったと言えます。今では、高齢化が進んでいるといわれるこの団地は団地の歴史が過去となり、その中から残したい過去を取り出してそれに沿った未来を規定していく媒介になっていくのでしょう。私自身はというと最近では、この媒介という特徴を高島平団地から知らずに身に付けてしまっているような気がしてならないのです。それともう一つ、些細なことではありますが、私は高島平団地について調べるために自分のアルバムをきちんと眺めてみるまでは気付かなかったのですが、私がそこで暮らしていたのはそれまでずっと3歳までだったと思い込んでいました。たぶん両親からそう聞かされていたからでしょうが、だとしたら高島平のことはほとんど覚えていないだろうと決め付けて、ろくに思い起こすこともしていませんでした。しかし、アルバムには父の字で昭和53年と書いてある高島平団地で撮った私と友達の写った写真があるのです。3歳までというのは、両親の記憶違いもあるのかもしれませんが、その後引越した福岡は父の故郷長崎に近く同じ九州でもあり、恐らく転勤とはいえ両親は福岡に一生住む気で引越したとも考えられ、私を東京（外部）の子供ではなく、福岡の子供にしたいという無意識の予防線が張られていたため、東京にいた期間は実際の年数の半分になったような気もするのです。そうやって、記憶に変更が加えられ記憶から引き出される歴史もずれていくのでしょう。それがいいとか悪いとかの評価をするつもりは、私にはありません。ただ記述できればと願うばかりです。</p>
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	&nbsp;</p>
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    <category>コラージュ散文</category>
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    <pubDate>Sun, 11 Dec 2011 09:23:58 GMT</pubDate>
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    <title>1</title>
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    <![CDATA[<a href="//kounotori0.blog.shinobi.jp/File/424f740e.jpg" target="_blank"><img alt="424f740e.jpg" src="//kounotori0.blog.shinobi.jp/Img/1320758115/" style="border: 0px solid currentColor; width: 111px; height: 150px; float: left;" /></a><br />
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<a href="//kounotori0.blog.shinobi.jp/File/b04b4bbf.jpg" target="_blank"><img alt="b04b4bbf.jpg" src="//kounotori0.blog.shinobi.jp/Img/1320809142/" style="border: 0px solid currentColor; width: 150px; height: 101px; float: left;" /></a><br />
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　詩は投壜通信であると、ロシアの詩人マンデリシュタームの書いた言葉が記憶に残っています、と「<a href="http://www.cocolog-nifty.com/error/404">不可能な人生</a>」というサイトには書かれていた。「投壜通信」という表現には、とそのサイトには続けられていた、孤独に遭難した船から家族や親しい友人に向けて書かれたものが、時を経て見知らぬ人の住む浜辺に流れ着き、偶然かつ必然に壜を拾った者が読者になるという意味が込められているのです。マンデリシュタームの言葉を受け取った私はまさに投壜通信の読者であり、今度は私自身がその発信者になりたいと思っていました。そして有難いことに、今やブログやツイッター等で誰もが簡単に投壜通信の発信者であり同時に受信者となることができます。しかしウェブというフラットな波においては、一見、遭難などあり得ないはずでいながら、あのメデューズ号の筏のように膨大で広大な情報波に再び遭難し、つまり小さなその壜まで呑み込まれ、先立っていった同乗者の死体を食べなければ（あるいは間引きし食糧として確保しなければ）生き残れない、手軽さから得られる当初の期待とは裏腹に、投壜通信など無化された環境に思えてきてしまうのです（そして現代アートの世界でも、<a href="http://www.art-it.asia/u/admin_ed_itv/S8QKgzwLPdbMtre1ycY4">ネットは危険でもあると言っていたクリスチャン・ボルタンスキー</a>が投壜通信に触れていたことに、私はリンクしたのです）、と「不可能な人生」には書かれていた。結局、私は生きた投壜通信ではなく、仮死の投壜通信として、因果律などない任意で連想的なしかし薄い記憶を、掬い出そうとしているのかもしれません。何のためにそんなことをするのかという問いには、最近それらしい応えを見つけました、「対抗記念碑」という考え方です。人々が重ね書き（パリンプセスト）するように打ち立ててきた「無自覚な歴史」という記念碑に対する「対抗記念碑」です。とは言うものの、それはあまりにも無力で、ほとんど何も対抗できない空元気みたいなものですが、と「不可能な人生」には書かれていた。<br />
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    <category>コラージュ散文</category>
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    <pubDate>Wed, 09 Nov 2011 00:08:28 GMT</pubDate>
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