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まず、仲佳子の作品について詳しく見ていきたいと思う。彼女の作品は、『月刊漫画ガロ』1968年10月1日(10)号から1973年7月1日(7)号 までの間に、「海ほおずき」(1968年10月)、「養子」(1968年11月)、「新吉の散歩」(1969年2月)、「若草」(1969年6月)、「港町十三番地」(1969年10月)、「白い鳥」(1969年11月)、「白い顔」(1970年2月)、「ちちくり長屋」(1970年7月)、「たこつぼ」(1973年7月)の9作品が掲載されている。
入選作品である「海ほおずき」を読むとわかるように、作品中に海ほおずきが描かれている箇所は一箇所もない。この話が追いかけてゆくシジミ売りの女が海ほおずきをならすのが「くせ」で、「口に ふたあっつもみっつも ほおばっていることが」あり、作品自体が冒頭とラストの彼女が海ほおずきを「ならしならし」歩くシーンに挟まれているにもかかわらず、彼女の口元には何もない。こういう、アールブリュットのような画風だと、海ほおずきをならしている口元をうまく描けなかったから言葉だけの説明ですませたのではないか、と推測することも一見可能に見えるが、私はそうではないと思う。海ほおずきを描くこと自体は、ナレーションで説明されているのだから、上唇と下唇の間にそれらしきものの線をちょっと付け足す記号的な表現でもすむ。が、それでは、2ページ目や11ページ目のような引きのショットだと、口元がすっきりせず絵的に美しくない。アップで海ほおずきをならす顔あるいは口元を描くのも、段取り的な説明になってしまう(5ページ目の2コマ目に息を切らす女の顔のアップがあるが、これは段取り的な説明ではなく、次の3コマ目と前の1コマ目を繋ぐ「間<ま>」としての役割を担っている)。何より重要なのは、「シジミ売りの女が ほおずきをならしならしやって来た」という場面の「ならしならし」の部分ではなく、「やって来た」(ラストでは「帰って行った」)ところに重点をおいて作者は描いたということであり、その方が作品としても良い。だから海ほおずきは描かれなかったのだと思う。その潔さは大変格好いい。しかし、3ページ目に「町中に入ると 帯の間にほおずきを仕舞い」とあるように、彼女は海辺でしかほおずきをならさないし、彼女の家は海辺にある(11ページ目のナレーション)。シジミを売る彼女自身が、巻貝の卵嚢である海ほおずきの別の姿なのかもしれない。そういう意味では、海ほおずきはちゃんと描かれている。彼女がどこか人間離れした純粋さを持ち合わせているように見え、人の死にあれほど驚き、出産に立ち会うことになって「生きるということはええことやのし」と言うのも、彼女自身が、海ほおずきが別の姿になったという生のエネルギーそのものだからとは言えないだろうか。最後に一点、産婆の、肘を上にして腕を垂直に立てる腕時計の見方は、とても良い。その良さには合理的な理由はないから、批評が下す良さではない。かといって芸術としての威圧的な良さでも、皆に好かれるようなもので根回しされた良さでもない。このポーズの持つ良さは、恐らく、漫画表現が持つ核心の部分に触れるものへの道筋の一つを示しているように私には思われる。
入選作品である「海ほおずき」を読むとわかるように、作品中に海ほおずきが描かれている箇所は一箇所もない。この話が追いかけてゆくシジミ売りの女が海ほおずきをならすのが「くせ」で、「口に ふたあっつもみっつも ほおばっていることが」あり、作品自体が冒頭とラストの彼女が海ほおずきを「ならしならし」歩くシーンに挟まれているにもかかわらず、彼女の口元には何もない。こういう、アールブリュットのような画風だと、海ほおずきをならしている口元をうまく描けなかったから言葉だけの説明ですませたのではないか、と推測することも一見可能に見えるが、私はそうではないと思う。海ほおずきを描くこと自体は、ナレーションで説明されているのだから、上唇と下唇の間にそれらしきものの線をちょっと付け足す記号的な表現でもすむ。が、それでは、2ページ目や11ページ目のような引きのショットだと、口元がすっきりせず絵的に美しくない。アップで海ほおずきをならす顔あるいは口元を描くのも、段取り的な説明になってしまう(5ページ目の2コマ目に息を切らす女の顔のアップがあるが、これは段取り的な説明ではなく、次の3コマ目と前の1コマ目を繋ぐ「間<ま>」としての役割を担っている)。何より重要なのは、「シジミ売りの女が ほおずきをならしならしやって来た」という場面の「ならしならし」の部分ではなく、「やって来た」(ラストでは「帰って行った」)ところに重点をおいて作者は描いたということであり、その方が作品としても良い。だから海ほおずきは描かれなかったのだと思う。その潔さは大変格好いい。しかし、3ページ目に「町中に入ると 帯の間にほおずきを仕舞い」とあるように、彼女は海辺でしかほおずきをならさないし、彼女の家は海辺にある(11ページ目のナレーション)。シジミを売る彼女自身が、巻貝の卵嚢である海ほおずきの別の姿なのかもしれない。そういう意味では、海ほおずきはちゃんと描かれている。彼女がどこか人間離れした純粋さを持ち合わせているように見え、人の死にあれほど驚き、出産に立ち会うことになって「生きるということはええことやのし」と言うのも、彼女自身が、海ほおずきが別の姿になったという生のエネルギーそのものだからとは言えないだろうか。最後に一点、産婆の、肘を上にして腕を垂直に立てる腕時計の見方は、とても良い。その良さには合理的な理由はないから、批評が下す良さではない。かといって芸術としての威圧的な良さでも、皆に好かれるようなもので根回しされた良さでもない。このポーズの持つ良さは、恐らく、漫画表現が持つ核心の部分に触れるものへの道筋の一つを示しているように私には思われる。
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