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福岡県糸島郡前原町に祖父母と祖母が折半して購入した家は、それこそ鰻の寝床のような細長い平屋でした、と「不可能な人生」というサイトの主は続けていた。平屋の手前は三角形の空き地になっていて、膝丈にまで達する蒼々とした雑草が繁茂していました。空き地の真ん中には、それほど大きくも小さくもない子供の遊び場にうってつけのネムノキが一本生えていました。夜になると葉を閉じて眠るのだと誰か大人に教えてもらった私は、風変りではあるけれど意外と目立たない花にはほとんど注意を向けず、その不思議な葉の下で一番よく上る太めの枝が擦れて白光りするほど、近所の子供たちと何度もそこへ上ったりそこから飛び降りたりしました。今でもあの枝振りと、白光りする枝に上ってまばらに踏み均された雑草を見下ろした時の光景が目に浮かびます、と「不可能な人生」というサイトの主は記していた。あともう一つ、この町で好きだったものは、首輪に大振りの鈴をつけ、いつも独りで散歩をしているダルメシアンに似た犬でした。その犬は一帯の子供たちにチロちゃんと呼ばれ(その謂れは鈴の音の擬態語だったような気がします)、独特の鈴の音が、彼の姿がまだ見えないうちから彼の訪れを告げていました。チロちゃんは恐らく老犬だったと思われ、彼の緩慢で最低限の動作からなる日課の散歩を邪魔する子供は一人もいませんでした。ただ人間と犬とが、お互いに気にかけている様子を多少とも示し合う程度でした。しかし、昭和50年代半ばのその町は、全くのよそ者ならば小学生でも察知するくらいの、とは言え言葉でははっきり捉えることのできない一種の暗さをまだ持っていました。その暗さとは、30年後に私が東京で体験した金環日食のような、マグリットの「光の帝国」のような、光と闇のバランスが取れていないような不安定さからくるものでした。平成3年発行の『前原町誌』を紐解くと、私たち家族が転入してきてまた次の土地へ転出していく間の昭和57年には解放センター隣保館が竣工し、翌58年に筑肥線が電化され福岡市営地下鉄と相互乗り入れ(筑前前原~博多間)が開始しています(電化前は、車両のドアを自分で開ける方式で都内にはなかったため、ひどく呑気に感じた記憶があります)。解放センター隣保館が竣工した頃、隣のブロックにある前原小学校に2年生から4年生まで通っていました。しかし当時は、あからさまに色眼鏡をかけてみせる近所の子供たちや小学校の児童たちという集団に慣れようとするのに汲々としていて、あるいは新しい環境や祖父母との同居から両親が受けるストレスの発散のとばっちりにじっと耐えるのに精一杯で、解放センター隣保館が一体どういうものか、それどころか解放センター隣保館の存在すら気づいていませんでした。ただ、その竣工前後その辺りに「同和対策」という手書きの大きな看板が古い建物にかかっていた記憶があります。小学生の私には覆いかぶさってくるような「同和」の文字が、意味も分からずけれども何となく予感できる薄暗い過去の陰を伸ばしているように思えました。今思えばこの町で暮らした五年間は、外輪の周縁に沿った細い道を、ゆっくりバランスを取りながらとぼとぼ歩いている、そんなイメージです。九州の、昔は部落と呼ばれていた地域に外部からやってきて、いつまでもしつこく溶け込めずに一番外側をぐるぐる回っているだけ。しかもこの町は、私の母が幼い頃、その母と姉たちと一緒に東京から疎開してきたところのすぐ傍でもありました。時間軸を巡っても同じ周囲を回っているのです、と「不可能な人生」というサイトの主は記していた。
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