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たいていは悪いことばかりが想起されます、と「不可能な人生」というサイトの主は記していた。悪いことばかりが想起される、というよりも、悪いように解釈しやすい過去の出来事によって、絶え間ない現在の忘却を一時停止させようとしているかのようです。けれども悪い思い出は、現在の忘却どころか、現在そのものを壊しかねない静かな暴力でもあります。良い思い出にも忘却の一時停止作用はありますが、悪い思い出と違い、古い忘却(良い思い出)によって新しい忘却(現在の無自覚)を忘却しているようで、これもまた怖さを覚えます。しかし、現在の何を忘却しつつあるのか、忘却の一時停止が何になるのか、いずれすべてが忘却に付され滅び去るとするなら、想起は無意味なことではないのかと考えたりもしますが、いずれ必ずみんな無くなることに、ゆるぎない安心感を覚えるのも確かです。とりあえずは、自分や周囲の人々が生きているうちはまだ記憶は滅亡していないということになるので、忘却の堰き止めによって何か底のほうに沈んでいたものが、落としたまま忘れていた宝物のようなガラクタが、浮き上がってくるのではないかという、子供じみた期待を持っても構わないと思っています。そうやって、想い起こしを繰り返しながら滅亡の観察に勤しむのは、健康のために栄養を摂ったり栄養を省いたりしながら、なるべく元気に死んでいこうとする老人ともそう変わらないでしょう。精神的引きこもりで、友達らしい友達のいなかった子供の頃の私は、いつ終わるとも知れない毎日をどうやって過ごしていたのだろうと、今さら心細く思い返したりします、と「不可能な人生」というサイトの主は書いていた。私の性質というか私という人間というか、そういうものをじっくり見てくれる人などいませんでした。今でもそう変わりはありません。この間、あなたは例外であろうとするね、と親しい人に言われました。その言葉の裏には、あなたは例外じゃないよ、という示唆があります。確かに彼にとって例外は私ではなく彼自身です。みんな自分の例外性を見いだし保存するのに精一杯です。自分の例外性を理解しやすくするには、他人をおしなべて一様に捉えるのが一番手っ取り早い方法なのです。それでも、他人が見ても彼は本当に例外で、私は例外じゃないということもわかっています。けれど、他人が何と言おうと大切なのは、本質的には例外などない社会や集団の中で、自分が自分であろうとしていることであって、例外/非例外の観念も全体の一部として含みます。私は一つ一つ、暗くてか細い自分の感覚の先端照明に照らし合わせながら拾い集めるしかありません、私が私だと思っているものから注意深く他人の同意や同情を得られそうなのでとっておいた部分をごっそり取り除き、むしろ他人にとってはゴミに過ぎないものを。
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