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詩は投壜通信であると、ロシアの詩人マンデリシュタームの書いた言葉が記憶に残っています、と「不可能な人生」というサイトには書かれていた。「投壜通信」という表現には、とそのサイトには続けられていた、孤独に遭難した船から家族や親しい友人に向けて書かれたものが、時を経て見知らぬ人の住む浜辺に流れ着き、偶然かつ必然に壜を拾った者が読者になるという意味が込められているのです。マンデリシュタームの言葉を受け取った私はまさに投壜通信の読者であり、今度は私自身がその発信者になりたいと思っていました。そして有難いことに、今やブログやツイッター等で誰もが簡単に投壜通信の発信者であり同時に受信者となることができます。しかしウェブというフラットな波においては、一見、遭難などあり得ないはずでいながら、あのメデューズ号の筏のように膨大で広大な情報波に再び遭難し、つまり小さなその壜まで呑み込まれ、先立っていった同乗者の死体を食べなければ(あるいは間引きし食糧として確保しなければ)生き残れない、手軽さから得られる当初の期待とは裏腹に、投壜通信など無化された環境に思えてきてしまうのです(そして現代アートの世界でも、ネットは危険でもあると言っていたクリスチャン・ボルタンスキーが投壜通信に触れていたことに、私はリンクしたのです)、と「不可能な人生」には書かれていた。結局、私は生きた投壜通信ではなく、仮死の投壜通信として、因果律などない任意で連想的なしかし薄い記憶を、掬い出そうとしているのかもしれません。何のためにそんなことをするのかという問いには、最近それらしい応えを見つけました、「対抗記念碑」という考え方です。人々が重ね書き(パリンプセスト)するように打ち立ててきた「無自覚な歴史」という記念碑に対する「対抗記念碑」です。とは言うものの、それはあまりにも無力で、ほとんど何も対抗できない空元気みたいなものですが、と「不可能な人生」には書かれていた。
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