「不可能な人生」の修復 2 忍者ブログ
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つまり、全体の中で自分はどういう人間だったのか、ということです、と今では無くなっている「不可能な人生」というサイトの書き手は記していた。自分が投げ出された環境や条件や文脈にどっぷり浸かって、主人公にしろ端役にしろ時代を担う一人としての歴史ストーリーをつなぎ合わせるのではなく、その時々に人々が見ていた歴史の底にたまった沈殿物のような澱を今の私という個人が抽出し、私自身の澱と照らし合わせつつ保存するのです。私は1972年(昭和47年)に生まれました。1972年は、最後の日本兵・横井庄一がグアムの密林から帰還し、浅間山荘事件が起こり、沖縄がアメリカから返還され、中国との国交が正常化し、田中角栄の『日本列島改造論』がベストセラー、スマイルバッジが人気となった年だそうです。その年に入居が始まった東京都板橋区の高島平団地が、私が生まれてから6歳近くまで過ごした家でした。以下は、高島平団地について「日経ビジネスオンライン」の2008年4月22日の記事から抜粋したものです、と「不可能な人生」というサイトの主が引用をしていた。

 日本住宅公団(現UR都市機構)が開発し、1972年から入居が始まった高島平団地は、マンモス団地の象徴だ。日本一の高層団地として脚光を浴び、田中角栄、福田赳夫、大平正芳ら歴代首相をはじめ多くの政治家が、高島平という大票田で「第一声」を上げている。第一次石油ショックで生活必需品欠乏の風評が高まったとき、いち早く米やトイレットペーパーなどの物資が投入された団地でもある。政府は、都市部のモデル団地への対応を通して品不足のデマを封じ込もうとした。
 一方で「自殺の名所」という嫌なキャッチフレーズもつけられた(少なくとも180人以上が飛び降りたようだ)。いまは建物の外廊下にもコンクリート柵が設けられている。さまざまな意味で時代の風を浴びてきた団地である。

確かに「マンモス団地」という言葉には聞き覚えがあり、小さい頃恐らく父が高島平団地を表現するときによく口にしていたような薄い記憶が浮かんできました。また、第一次オイルショックに伴う買占騒動の体験談を、両親から聞いたこともありません(それよりも断水騒動で、母がポリタンクに給水をしに並んだときについていったのか、そのときの光景のほうが印象に残っています。もっとも、それは高島平ではなく、後に住んだ福岡の団地での出来事なのかもしれませんが)。高島平団地が「自殺の名所」と言われたのは、私たち家族が引越した後になってからであり、とにかく私が幼少期を過ごした時期には、日本の高度経済成長を視覚化したような巨大団地には、不自然なほど陰が存在しなかったのではないかと思います。私の生まれてから幼稚園までのアルバムを見ても、30年以上前であるにもかかわらず現在の風景と変わらない団地内の様子が写し出されています。ただ、子供たちの着ている洋服のデザインに時代を感じるだけです。最近になって私は、高島平団地の建設当時の古い写真をネット上で見つけ出すことができました、と「不可能な人生」の書き手は記していた。それは、板橋区のサイトで、こうぶんしょ館電子展示室67号「高島平団地ができたころ」という説明書きに添えられていました。その中の一枚、高島平団地遠望(昭和47年)というモノクロ写真を見て、私が自分の幼少期に抱いてきた個人的な思い出の印象が、同時期(昭和47年から53年辺りまで)の日本全体の中に置いてみると、当然ではありますがかなり小さく偏ったものであることに初めて気がついたのでした。モノクロ写真の中で、現在と変わらない表情をしているのは高島平団地だけであり、すぐ周囲の写真の手前に写っている家屋の陰には、戦後の空気が籠もっているのが見えてくるようです。私は、恐らく、高島平団地内だけで日常を過ごしていたのでしょう。このような古い家屋(といっても、当時はそれが一般的だったのかもしれません)は、祖父母の田舎の家しか記憶に残っていないのです。同じページのもう少し下の方には、高島平団地を上空より望む2(昭和47年)というこれもモノクロの写真があり、そこに写っている作りかけの地上の団地は、まるで箱庭のようです。私は、この白い巨大な箱庭の中でコントロールされた状況を出発点に、その平板な風景がずっと続くことを疑いもせず歩いてきたようなものでした。高島平団地は、私が住んでいた当時は過去を地均しし、ミュージアム的に均質化された生活空間を演出することで自分たちの見たい未来を媒介する存在だったと言えます。今では、高齢化が進んでいるといわれるこの団地は団地の歴史が過去となり、その中から残したい過去を取り出してそれに沿った未来を規定していく媒介になっていくのでしょう。私自身はというと最近では、この媒介という特徴を高島平団地から知らずに身に付けてしまっているような気がしてならないのです。それともう一つ、些細なことではありますが、私は高島平団地について調べるために自分のアルバムをきちんと眺めてみるまでは気付かなかったのですが、私がそこで暮らしていたのはそれまでずっと3歳までだったと思い込んでいました。たぶん両親からそう聞かされていたからでしょうが、だとしたら高島平のことはほとんど覚えていないだろうと決め付けて、ろくに思い起こすこともしていませんでした。しかし、アルバムには父の字で昭和53年と書いてある高島平団地で撮った私と友達の写った写真があるのです。3歳までというのは、両親の記憶違いもあるのかもしれませんが、その後引越した福岡は父の故郷長崎に近く同じ九州でもあり、恐らく転勤とはいえ両親は福岡に一生住む気で引越したとも考えられ、私を東京(外部)の子供ではなく、福岡の子供にしたいという無意識の予防線が張られていたため、東京にいた期間は実際の年数の半分になったような気もするのです。そうやって、記憶に変更が加えられ記憶から引き出される歴史もずれていくのでしょう。それがいいとか悪いとかの評価をするつもりは、私にはありません。ただ記述できればと願うばかりです。




 

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