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後に大友克洋が高島平団地を舞台に「童夢」を描きましたが、私は高島平でのことをほとんど覚えていません、と「不可能な人生」というサイトの主は記していた。団地内に、はるみちゃんという一つ年上の遊び友達がいて、その子の家にはピアノやフランス人形やシャンデリアや華やかな絨毯があり、「舶来品」とか「バタ臭い」という言葉を型どおりに連想させ、これも型どおりに私の両親がそれを羨みと妬みで眺め、子供たちは浮間幼稚園というところに通っていたらしいということぐらいしか思い出せません。それも後になって、運動会やクリスマス会、多摩動物園への遠足といった、アルバムの写真を見てから覚えた思い出である部分のほうが多いはずです。昭和53年と手書きのある高島平団地内の子供たちの写真のは恐らく、福岡へ引っ越す直前に記念として撮られたのではないかと思います。その側には、浮間幼稚園年少組の修了記念写真(昭和53年3月)があり、同年の4月の年度始めに合わせて転居したと推測します。引っ越した先は、福岡市の室住団地でした。二級河川室見川の川沿いに建つ室住団地は、昭和45年に入居が始まり2200戸ほどの規模だそうです。入居の翌年に開園した室住幼稚園は団地内にありましたが、定員オーバーを理由に、しばらく入園を待たされることになると母がぼやいていたのを聞いた記憶があります。しばらくと言っても1~2か月と思われ、父の日の行事にはじゃがいものような父の似顔絵を胸に掲げ、首にできた汗疹にシッカロールと包帯を施した私の姿がアルバムに残っています。しかし正直言って、浮間幼稚園と室住幼稚園の記憶は双子の姉妹のように、すぐにお互いが入れ替わり重なり合い交錯して見分けがつかなくなってしまいます。まるでその頃の私の記憶が思い起こされまいとして、するりするりと逃げ回っているような具合なのです。と、ここまで書いたとき不意に、おそらく室住幼稚園で、緊張と不安からみんなの前でおしっこを漏らしてしまったことがあることを思い出しました、と「不可能な人生」というサイトの主は記していた。福岡という地方都市にあり、高島平に比べれば、かなりこじんまりと素朴に見える室住団地に於いては、入居開始から8年という期間は地域の輪ができるには十分だったと思われます。そこへ、よく分からない「マンモス団地」から来たと言っているような家族に、輪はほぼ閉じたままだったのではないでしょうか。そのときから、以後ずっと付きまとう寄る辺なさが、私や両親を取り囲んだのではないかと想像できます。ただ、これも団地内にあった公民館で子供向けの絵画教室に通っていたことの印象は、幼稚園に通っていた印象よりも強いものがありました。泳げるようになればなるほど上級クラスの深いプールへ回され、緊張や不安を持つ暇もなくただ必死で泳ぐだけだった水泳教室と同様、両親のすすめで始めたのですが、クレヨンや水彩で絵を描くことは私にとっては格好の一人遊びだったのかもしれません。絵画教室に友達がいたのかどうかは全く記憶にありません。記憶にないので、いなかったのではないかと思うのですが、アルバムのお遊戯や遠足、クリスマス会、運動会といった記念写真を見ても、ほぼ何の思い出も持っていないのに、絵を描きに教室へコツコツ通ったような何かをしていたような感触は、微かですが残っているのです。センスや才能とは関係なく大人になってからも私が絵を描き続けているのは、小さい頃のこのひたむきさを繰り返したいという単純な衝動によるところが大きいのかもしれません。室住幼稚園を卒園し、昭和54年4月に室住団地のすぐ側にある福岡市立有田小学校に入学しました、と「不可能な人生」というサイトの主は記していた。HPを見てみると、有田小学校は昭和50年に他の小学校の分離校として創設され、昭和56年には福岡市第一のマンモス校になったようで、その翌年には有住小学校が分離開校しています。第二次ベビーブームの子供だった私は、どこへ行ってもたくさんの同世代に囲まれていたわけですが、ほとんどその大きな輪の中に入ったという感触はありませんでした。高島平でずっと育っていたとしたら、輪の存在に気づいたとしても切実には感じない落ち着いた東京人になっていたことでしょう。かといって、幼少期を過ごした当時の高島平は、まだゼロから出発したばかりの頃で、入居者のほとんどが共稼ぎの若夫婦だったといいますから、田舎のような広がりや力を持った輪はまだ存在していなかったと思われ、そのためか私もそこを生まれ故郷とする積極性がほとんど無いのです。生まれ故郷だと他人や自分に言うには、何も無さ過ぎるのでした。有田小学校も1~2年しか通うことはありませんでした。県内にいる父の両親と同居するため、糸島郡前原町(現在は糸島市)に父母と祖父母が共同で家を買い、そちらへ引っ越すことになったからでした。ですから、室住団地での思い出もほとんどないのですが、ただ一つ、近くを流れる室見川が大雨だか台風だかで氾濫し、団地の周囲まで浸水している中を、長靴をはいて必死に小学校へ向かった記憶だけがぼんやり残っています。なぜそんな状況でそういう行動をとっていたのか、前後の脈絡は途切れたまま、とにかく行かなければ怒られるという緊張感が思い出されるだけです。
つまり、全体の中で自分はどういう人間だったのか、ということです、と今では無くなっている「不可能な人生」というサイトの書き手は記していた。自分が投げ出された環境や条件や文脈にどっぷり浸かって、主人公にしろ端役にしろ時代を担う一人としての歴史ストーリーをつなぎ合わせるのではなく、その時々に人々が見ていた歴史の底にたまった沈殿物のような澱を今の私という個人が抽出し、私自身の澱と照らし合わせつつ保存するのです。私は1972年(昭和47年)に生まれました。1972年は、最後の日本兵・横井庄一がグアムの密林から帰還し、浅間山荘事件が起こり、沖縄がアメリカから返還され、中国との国交が正常化し、田中角栄の『日本列島改造論』がベストセラー、スマイルバッジが人気となった年だそうです。その年に入居が始まった東京都板橋区の高島平団地が、私が生まれてから6歳近くまで過ごした家でした。以下は、高島平団地について「日経ビジネスオンライン」の2008年4月22日の記事から抜粋したものです、と「不可能な人生」というサイトの主が引用をしていた。
日本住宅公団(現UR都市機構)が開発し、1972年から入居が始まった高島平団地は、マンモス団地の象徴だ。日本一の高層団地として脚光を浴び、田中角栄、福田赳夫、大平正芳ら歴代首相をはじめ多くの政治家が、高島平という大票田で「第一声」を上げている。第一次石油ショックで生活必需品欠乏の風評が高まったとき、いち早く米やトイレットペーパーなどの物資が投入された団地でもある。政府は、都市部のモデル団地への対応を通して品不足のデマを封じ込もうとした。
一方で「自殺の名所」という嫌なキャッチフレーズもつけられた(少なくとも180人以上が飛び降りたようだ)。いまは建物の外廊下にもコンクリート柵が設けられている。さまざまな意味で時代の風を浴びてきた団地である。
確かに「マンモス団地」という言葉には聞き覚えがあり、小さい頃恐らく父が高島平団地を表現するときによく口にしていたような薄い記憶が浮かんできました。また、第一次オイルショックに伴う買占騒動の体験談を、両親から聞いたこともありません(それよりも断水騒動で、母がポリタンクに給水をしに並んだときについていったのか、そのときの光景のほうが印象に残っています。もっとも、それは高島平ではなく、後に住んだ福岡の団地での出来事なのかもしれませんが)。高島平団地が「自殺の名所」と言われたのは、私たち家族が引越した後になってからであり、とにかく私が幼少期を過ごした時期には、日本の高度経済成長を視覚化したような巨大団地には、不自然なほど陰が存在しなかったのではないかと思います。私の生まれてから幼稚園までのアルバムを見ても、30年以上前であるにもかかわらず現在の風景と変わらない団地内の様子が写し出されています。ただ、子供たちの着ている洋服のデザインに時代を感じるだけです。最近になって私は、高島平団地の建設当時の古い写真をネット上で見つけ出すことができました、と「不可能な人生」の書き手は記していた。それは、板橋区のサイトで、こうぶんしょ館電子展示室67号「高島平団地ができたころ」という説明書きに添えられていました。その中の一枚、高島平団地遠望(昭和47年)というモノクロ写真を見て、私が自分の幼少期に抱いてきた個人的な思い出の印象が、同時期(昭和47年から53年辺りまで)の日本全体の中に置いてみると、当然ではありますがかなり小さく偏ったものであることに初めて気がついたのでした。モノクロ写真の中で、現在と変わらない表情をしているのは高島平団地だけであり、すぐ周囲の写真の手前に写っている家屋の陰には、戦後の空気が籠もっているのが見えてくるようです。私は、恐らく、高島平団地内だけで日常を過ごしていたのでしょう。このような古い家屋(といっても、当時はそれが一般的だったのかもしれません)は、祖父母の田舎の家しか記憶に残っていないのです。同じページのもう少し下の方には、高島平団地を上空より望む2(昭和47年)というこれもモノクロの写真があり、そこに写っている作りかけの地上の団地は、まるで箱庭のようです。私は、この白い巨大な箱庭の中でコントロールされた状況を出発点に、その平板な風景がずっと続くことを疑いもせず歩いてきたようなものでした。高島平団地は、私が住んでいた当時は過去を地均しし、ミュージアム的に均質化された生活空間を演出することで自分たちの見たい未来を媒介する存在だったと言えます。今では、高齢化が進んでいるといわれるこの団地は団地の歴史が過去となり、その中から残したい過去を取り出してそれに沿った未来を規定していく媒介になっていくのでしょう。私自身はというと最近では、この媒介という特徴を高島平団地から知らずに身に付けてしまっているような気がしてならないのです。それともう一つ、些細なことではありますが、私は高島平団地について調べるために自分のアルバムをきちんと眺めてみるまでは気付かなかったのですが、私がそこで暮らしていたのはそれまでずっと3歳までだったと思い込んでいました。たぶん両親からそう聞かされていたからでしょうが、だとしたら高島平のことはほとんど覚えていないだろうと決め付けて、ろくに思い起こすこともしていませんでした。しかし、アルバムには父の字で昭和53年と書いてある高島平団地で撮った私と友達の写った写真があるのです。3歳までというのは、両親の記憶違いもあるのかもしれませんが、その後引越した福岡は父の故郷長崎に近く同じ九州でもあり、恐らく転勤とはいえ両親は福岡に一生住む気で引越したとも考えられ、私を東京(外部)の子供ではなく、福岡の子供にしたいという無意識の予防線が張られていたため、東京にいた期間は実際の年数の半分になったような気もするのです。そうやって、記憶に変更が加えられ記憶から引き出される歴史もずれていくのでしょう。それがいいとか悪いとかの評価をするつもりは、私にはありません。ただ記述できればと願うばかりです。
詩は投壜通信であると、ロシアの詩人マンデリシュタームの書いた言葉が記憶に残っています、と「不可能な人生」というサイトには書かれていた。「投壜通信」という表現には、とそのサイトには続けられていた、孤独に遭難した船から家族や親しい友人に向けて書かれたものが、時を経て見知らぬ人の住む浜辺に流れ着き、偶然かつ必然に壜を拾った者が読者になるという意味が込められているのです。マンデリシュタームの言葉を受け取った私はまさに投壜通信の読者であり、今度は私自身がその発信者になりたいと思っていました。そして有難いことに、今やブログやツイッター等で誰もが簡単に投壜通信の発信者であり同時に受信者となることができます。しかしウェブというフラットな波においては、一見、遭難などあり得ないはずでいながら、あのメデューズ号の筏のように膨大で広大な情報波に再び遭難し、つまり小さなその壜まで呑み込まれ、先立っていった同乗者の死体を食べなければ(あるいは間引きし食糧として確保しなければ)生き残れない、手軽さから得られる当初の期待とは裏腹に、投壜通信など無化された環境に思えてきてしまうのです(そして現代アートの世界でも、ネットは危険でもあると言っていたクリスチャン・ボルタンスキーが投壜通信に触れていたことに、私はリンクしたのです)、と「不可能な人生」には書かれていた。結局、私は生きた投壜通信ではなく、仮死の投壜通信として、因果律などない任意で連想的なしかし薄い記憶を、掬い出そうとしているのかもしれません。何のためにそんなことをするのかという問いには、最近それらしい応えを見つけました、「対抗記念碑」という考え方です。人々が重ね書き(パリンプセスト)するように打ち立ててきた「無自覚な歴史」という記念碑に対する「対抗記念碑」です。とは言うものの、それはあまりにも無力で、ほとんど何も対抗できない空元気みたいなものですが、と「不可能な人生」には書かれていた。