「不可能な人生」の修復 コラージュ散文 忍者ブログ
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最近は、集団の輪の内側と外側のことをよく考えます、と「不可能な人生」というサイトの主は続けていた。私は輪の外側の人間であり、今まで私の他に外側の人間に会ったことがないということに、段々確信を持つようになってきたのです。高島平という、それまでの地縁・血縁・職縁が取り払われ地均しされた開拓地に生まれ、その後平均で五年ごとに引越しを繰り返すという状況にあった私は、単によそ者という意味では外側の人間だと自分でも思っていましたが、年を取るごとに出会う人のパターンも定まり、どんなに普通でない人もみな内側の人間であることが分かるにつれ、それはもっと規模の大きな、一生どこに行ってもよそ者でしかないという、他者との決定的な違いが最初からあったことを意識し始めたです。それからは、輪の外側を中心に据え内側を補助線にして考えてみようとは思っているのですが、違和感を感じながらも内側を中心に、というか、内側しかないとずっと教えられてきたため、いくら外側の人間である私にも骨の折れる切り替え作業でした。それはむしろ、内側にいる外れ者のほうがうまくできることなのです、内側という揺るぎない基盤に乗りながら、外れ者としての自我を出していけばいいのですから(その分風当たりは強いでしょうが)、と「不可能な人生」というサイトの主は書いていた。今までは、当然のように内側に入りたいと思わされてきました、思わされていることを自発的にそう思っていると勘違いしながら。私以外の全員が内側であるなら、私の存在は誤差であるためそれは無理もないことと言えますが、発想を他者中心的ではなく自己中心的に逆転させ、正常に戻してみるべきなのです。つまり、内側のほうからやってくる強制力を集団のおかしさと捉え、誤差の側から広大で強力な内側を見直してみるということです。まず、内側の人間は、外側はないと思っています。永遠というものが人間にとっては実際無いのと同じように、外側という言葉はあってもあくまで言葉だけの存在であり、実際は無いと考えているのです、自分たちにとってあまり都合のよくない人間を「外道」「外部」等として取り込んだり、内側の変わり者が他の人間と一緒にされたくなくて自分は「外側」の人間だと反抗的に口にしたりする以外は。要するに、みんな一緒だよ、と言っているのです。これは、内側に入りたいと思わされてきた外側の人間にとって、ハニートラップのような甘い罠でした。罠に誘われ調子に乗って内側に近づき過ぎた途端、おまえと俺たちを一緒にするな、さっさと出ていけと弾き出されるのがオチなのです。一緒だと言っておいて違うと突っぱねれば、自分たちがコントロールしているように装えるため、外側の人間に対しても外側に置き去りにしたまま影響力を持つことができます。内側である=集団になるということは、それだけで圧力を持つことなのです。その圧力は外側に対しては、常に巨大で強力な磁石の壁のように作用します、絶対に中には入れませんが、見えなくなるほど遠くまで外側の人間を自由にさせることもなく、無意味に引付けておこうとするのです。一方、内側に対しては、何か問題が起こると普段は目に見えない輪をぎゅうっと縮め、狙った人間を完全に囲い込むという圧力を加えます、と「不可能な人生」というサイトの主は述べていた。外側の人間の常識として、内側に入るとき私は外側の人間ですよと誇示しながら入ることはしません。なるべく内側の人間のふりをして、目立たないようにして入ります。良くも悪くも目立てば彼らに突っ込みどころを与えるだけであり、一度そうなってしまえばたった一人の外側の人間など何も成す術はありません。本当に、日常生活の中で、頭の天辺からつま先まで、今いる周りの見知らぬ三次元空間に自分だけ二次元の紙みたいに貼りつけられたような違和感と頼りなさを感じたことのある人はいるのでしょうか。それは疎外感などという優雅なものではなく、疎外そのものなのです。私は、内側のひねくれ者・変わり者をずっとうらやましく思っていました。内側にいながら自由で(と、子供の頃は思っていましたが、その実、内側にいるからこその保証と制裁のある自由だったのですが)、どんなに奇人・変人臭を出しても私のように疎外されることはなかったのですから。そして疎外感というものを優雅に感じることができるのは、正にこういった内側の奇人・変人たちであり、それは、みんなが他人と差をつけたがる個性というものの勲章にしか私には見えませんでした。個性とか自分らしさとかをのうのうと語っていられるのは、内側の人間だけです。外側の人間は今のところ私一人ですが、それは個性ということとは本来は別次元なのです。たとえ私一人だけに言えることであっても、まず他の人には全く分からないし、私の性格とか人間性とかとはぴったり一致しない見えにくさもあるので、私だけの妄想と区別がつかないのは確かです。とはいえ、外側の人間であるという立ち位置が、私の性格や人間をある程度特徴づけてもいるはずであり、そのわずかな違和感を嗅ぎ取るのか、頭や勘のいい人、内側の外れ者といった人とは確かに縁があります。内側ど真ん中の人間とは恐らく、一生ニアミスすることすらないでしょう。そして、外側の人間が内側の情報を得たり、内側と接触したりするのは、あくまで内側の人間を通してであり、私が直接内側に介入したり働きかけたりするのは双方にとってルール違反です。最近はそういうようなことを、孤独の言い訳にしています。

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たいていは悪いことばかりが想起されます、と「不可能な人生」というサイトの主は記していた。悪いことばかりが想起される、というよりも、悪いように解釈しやすい過去の出来事によって、絶え間ない現在の忘却を一時停止させようとしているかのようです。けれども悪い思い出は、現在の忘却どころか、現在そのものを壊しかねない静かな暴力でもあります。良い思い出にも忘却の一時停止作用はありますが、悪い思い出と違い、古い忘却(良い思い出)によって新しい忘却(現在の無自覚)を忘却しているようで、これもまた怖さを覚えます。しかし、現在の何を忘却しつつあるのか、忘却の一時停止が何になるのか、いずれすべてが忘却に付され滅び去るとするなら、想起は無意味なことではないのかと考えたりもしますが、いずれ必ずみんな無くなることに、ゆるぎない安心感を覚えるのも確かです。とりあえずは自分や周囲の人々が生きているうちはまだ記憶は滅亡していないということになるので、忘却の堰き止めによって何か底のほうに沈んでいたものが、落としたまま忘れていた宝物のようなガラクタが、浮き上がってくるのではないかという、子供じみた期待を持っても構わないと思っています。そうやって、想い起こしを繰り返しながら滅亡の観察に勤しむのは、健康のために栄養を摂ったり栄養を省いたりしながら、なるべく元気に死んでいこうとする老人ともそう変わらないでしょう。精神的引きこもりで、友達らしい友達のいなかった子供の頃の私は、いつ終わるとも知れない毎日をどうやって過ごしていたのだろうと、今さら心細く思い返したりします、と「不可能な人生」というサイトの主は書いていた。私の性質というか私という人間というか、そういうものをじっくり見てくれる人などいませんでした。今でもそう変わりはありません。この間、あなたは例外であろうとするね、と親しい人に言われました。その言葉の裏には、あなたは例外じゃないよ、という示唆があります。確かに彼にとって例外は私ではなく彼自身です。みんな自分の例外性を見いだし保存するのに精一杯です。自分の例外性を理解しやすくするには、他人をおしなべて一様に捉えるのが一番手っ取り早い方法なのです。それでも、他人が見ても彼は本当に例外で、私は例外じゃないということもわかっています。けれど、他人が何と言おうと大切なのは、本質的には例外などない社会や集団の中で、自分が自分であろうとしていることであって、例外/非例外の観念も全体の一部として含みます。私は一つ一つ、暗くてか細い自分の感覚の先端照明に照らし合わせながら拾い集めるしかありません、私が私だと思っているものから注意深く他人の同意や同情を得られそうなのでとっておいた部分をごっそり取り除き、むしろ他人にとってはゴミに過ぎないものを。

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後に大友克洋が高島平団地を舞台に「童夢」を描きましたが、私は高島平でのことをほとんど覚えていません、と「不可能な人生」というサイトの主は記していた。団地内に、はるみちゃんという一つ年上の遊び友達がいて、その子の家にはピアノやフランス人形やシャンデリアや華やかな絨毯があり、「舶来品」とか「バタ臭い」という言葉を型どおりに連想させ、これも型どおりに私の両親がそれを羨みと妬みで眺め、子供たちは浮間幼稚園というところに通っていたらしいということぐらいしか思い出せません。それも後になって、運動会やクリスマス会、多摩動物園への遠足といった、アルバムの写真を見てから覚えた思い出である部分のほうが多いはずです。昭和53年と手書きのある高島平団地内の子供たちの写真のは恐らく、福岡へ引っ越す直前に記念として撮られたのではないかと思います。その側には、浮間幼稚園年少組の修了記念写真(昭和53年3月)があり、同年の4月の年度始めに合わせて転居したと推測します。引っ越した先は、福岡市の室住団地でした。二級河川室見川の川沿いに建つ室住団地は、昭和45年に入居が始まり2200戸ほどの規模だそうです。入居の翌年に開園した室住幼稚園は団地内にありましたが、定員オーバーを理由に、しばらく入園を待たされることになると母がぼやいていたのを聞いた記憶があります。しばらくと言っても1~2か月と思われ、父の日の行事にはじゃがいものような父の似顔絵を胸に掲げ、首にできた汗疹にシッカロールと包帯を施した私の姿がアルバムに残っています。しかし正直言って、浮間幼稚園と室住幼稚園の記憶は双子の姉妹のように、すぐにお互いが入れ替わり重なり合い交錯して見分けがつかなくなってしまいます。まるでその頃の私の記憶が思い起こされまいとして、するりするりと逃げ回っているような具合なのです。と、ここまで書いたとき不意に、おそらく室住幼稚園で、緊張と不安からみんなの前でおしっこを漏らしてしまったことがあることを思い出しました、と「不可能な人生」というサイトの主は記していた。福岡という地方都市にあり、高島平に比べれば、かなりこじんまりと素朴に見える室住団地に於いては、入居開始から8年という期間は地域の輪ができるには十分だったと思われます。そこへ、よく分からない「マンモス団地」から来たと言っているような家族に、輪はほぼ閉じたままだったのではないでしょうか。そのときから、以後ずっと付きまとう寄る辺なさが、私や両親を取り囲んだのではないかと想像できます。ただ、これも団地内にあった公民館で子供向けの絵画教室に通っていたことの印象は、幼稚園に通っていた印象よりも強いものがありました。泳げるようになればなるほど上級クラスの深いプールへ回され、緊張や不安を持つ暇もなくただ必死で泳ぐだけだった水泳教室と同様、両親のすすめで始めたのですが、クレヨンや水彩で絵を描くことは私にとっては格好の一人遊びだったのかもしれません。絵画教室に友達がいたのかどうかは全く記憶にありません。記憶にないので、いなかったのではないかと思うのですが、アルバムのお遊戯や遠足、クリスマス会、運動会といった記念写真を見ても、ほぼ何の思い出も持っていないのに、絵を描きに教室へコツコツ通ったような何かをしていたような感触は、微かですが残っているのです。センスや才能とは関係なく大人になってからも私が絵を描き続けているのは、小さい頃のこのひたむきさを繰り返したいという単純な衝動によるところが大きいのかもしれません。室住幼稚園を卒園し、昭和54年4月に室住団地のすぐ側にある福岡市立有田小学校に入学しました、と「不可能な人生」というサイトの主は記していた。HPを見てみると、有田小学校は昭和50年に他の小学校の分離校として創設され、昭和56年には福岡市第一のマンモス校になったようで、その翌年には有住小学校が分離開校しています。第二次ベビーブームの子供だった私は、どこへ行ってもたくさんの同世代に囲まれていたわけですが、ほとんどその大きな輪の中に入ったという感触はありませんでした。高島平でずっと育っていたとしたら、輪の存在に気づいたとしても切実には感じない落ち着いた東京人になっていたことでしょう。かといって、幼少期を過ごした当時の高島平は、まだゼロから出発したばかりの頃で、入居者のほとんどが共稼ぎの若夫婦だったといいますから、田舎のような広がりや力を持った輪はまだ存在していなかったと思われ、そのためか私もそこを生まれ故郷とする積極性がほとんど無いのです。生まれ故郷だと他人や自分に言うには、何も無さ過ぎるのでした。有田小学校も1~2年しか通うことはありませんでした。県内にいる父の両親と同居するため、糸島郡前原町(現在は糸島市)に父母と祖父母が共同で家を買い、そちらへ引っ越すことになったからでした。ですから、室住団地での思い出もほとんどないのですが、ただ一つ、近くを流れる室見川が大雨だか台風だかで氾濫し、団地の周囲まで浸水している中を、長靴をはいて必死に小学校へ向かった記憶だけがぼんやり残っています。なぜそんな状況でそういう行動をとっていたのか、前後の脈絡は途切れたまま、とにかく行かなければ怒られるという緊張感が思い出されるだけです。                                                                                                            

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つまり、全体の中で自分はどういう人間だったのか、ということです、と今では無くなっている「不可能な人生」というサイトの書き手は記していた。自分が投げ出された環境や条件や文脈にどっぷり浸かって、主人公にしろ端役にしろ時代を担う一人としての歴史ストーリーをつなぎ合わせるのではなく、その時々に人々が見ていた歴史の底にたまった沈殿物のような澱を今の私という個人が抽出し、私自身の澱と照らし合わせつつ保存するのです。私は1972年(昭和47年)に生まれました。1972年は、最後の日本兵・横井庄一がグアムの密林から帰還し、浅間山荘事件が起こり、沖縄がアメリカから返還され、中国との国交が正常化し、田中角栄の『日本列島改造論』がベストセラー、スマイルバッジが人気となった年だそうです。その年に入居が始まった東京都板橋区の高島平団地が、私が生まれてから6歳近くまで過ごした家でした。以下は、高島平団地について「日経ビジネスオンライン」の2008年4月22日の記事から抜粋したものです、と「不可能な人生」というサイトの主が引用をしていた。

 日本住宅公団(現UR都市機構)が開発し、1972年から入居が始まった高島平団地は、マンモス団地の象徴だ。日本一の高層団地として脚光を浴び、田中角栄、福田赳夫、大平正芳ら歴代首相をはじめ多くの政治家が、高島平という大票田で「第一声」を上げている。第一次石油ショックで生活必需品欠乏の風評が高まったとき、いち早く米やトイレットペーパーなどの物資が投入された団地でもある。政府は、都市部のモデル団地への対応を通して品不足のデマを封じ込もうとした。
 一方で「自殺の名所」という嫌なキャッチフレーズもつけられた(少なくとも180人以上が飛び降りたようだ)。いまは建物の外廊下にもコンクリート柵が設けられている。さまざまな意味で時代の風を浴びてきた団地である。

確かに「マンモス団地」という言葉には聞き覚えがあり、小さい頃恐らく父が高島平団地を表現するときによく口にしていたような薄い記憶が浮かんできました。また、第一次オイルショックに伴う買占騒動の体験談を、両親から聞いたこともありません(それよりも断水騒動で、母がポリタンクに給水をしに並んだときについていったのか、そのときの光景のほうが印象に残っています。もっとも、それは高島平ではなく、後に住んだ福岡の団地での出来事なのかもしれませんが)。高島平団地が「自殺の名所」と言われたのは、私たち家族が引越した後になってからであり、とにかく私が幼少期を過ごした時期には、日本の高度経済成長を視覚化したような巨大団地には、不自然なほど陰が存在しなかったのではないかと思います。私の生まれてから幼稚園までのアルバムを見ても、30年以上前であるにもかかわらず現在の風景と変わらない団地内の様子が写し出されています。ただ、子供たちの着ている洋服のデザインに時代を感じるだけです。最近になって私は、高島平団地の建設当時の古い写真をネット上で見つけ出すことができました、と「不可能な人生」の書き手は記していた。それは、板橋区のサイトで、こうぶんしょ館電子展示室67号「高島平団地ができたころ」という説明書きに添えられていました。その中の一枚、高島平団地遠望(昭和47年)というモノクロ写真を見て、私が自分の幼少期に抱いてきた個人的な思い出の印象が、同時期(昭和47年から53年辺りまで)の日本全体の中に置いてみると、当然ではありますがかなり小さく偏ったものであることに初めて気がついたのでした。モノクロ写真の中で、現在と変わらない表情をしているのは高島平団地だけであり、すぐ周囲の写真の手前に写っている家屋の陰には、戦後の空気が籠もっているのが見えてくるようです。私は、恐らく、高島平団地内だけで日常を過ごしていたのでしょう。このような古い家屋(といっても、当時はそれが一般的だったのかもしれません)は、祖父母の田舎の家しか記憶に残っていないのです。同じページのもう少し下の方には、高島平団地を上空より望む2(昭和47年)というこれもモノクロの写真があり、そこに写っている作りかけの地上の団地は、まるで箱庭のようです。私は、この白い巨大な箱庭の中でコントロールされた状況を出発点に、その平板な風景がずっと続くことを疑いもせず歩いてきたようなものでした。高島平団地は、私が住んでいた当時は過去を地均しし、ミュージアム的に均質化された生活空間を演出することで自分たちの見たい未来を媒介する存在だったと言えます。今では、高齢化が進んでいるといわれるこの団地は団地の歴史が過去となり、その中から残したい過去を取り出してそれに沿った未来を規定していく媒介になっていくのでしょう。私自身はというと最近では、この媒介という特徴を高島平団地から知らずに身に付けてしまっているような気がしてならないのです。それともう一つ、些細なことではありますが、私は高島平団地について調べるために自分のアルバムをきちんと眺めてみるまでは気付かなかったのですが、私がそこで暮らしていたのはそれまでずっと3歳までだったと思い込んでいました。たぶん両親からそう聞かされていたからでしょうが、だとしたら高島平のことはほとんど覚えていないだろうと決め付けて、ろくに思い起こすこともしていませんでした。しかし、アルバムには父の字で昭和53年と書いてある高島平団地で撮った私と友達の写った写真があるのです。3歳までというのは、両親の記憶違いもあるのかもしれませんが、その後引越した福岡は父の故郷長崎に近く同じ九州でもあり、恐らく転勤とはいえ両親は福岡に一生住む気で引越したとも考えられ、私を東京(外部)の子供ではなく、福岡の子供にしたいという無意識の予防線が張られていたため、東京にいた期間は実際の年数の半分になったような気もするのです。そうやって、記憶に変更が加えられ記憶から引き出される歴史もずれていくのでしょう。それがいいとか悪いとかの評価をするつもりは、私にはありません。ただ記述できればと願うばかりです。




 

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 詩は投壜通信であると、ロシアの詩人マンデリシュタームの書いた言葉が記憶に残っています、と「不可能な人生」というサイトには書かれていた。「投壜通信」という表現には、とそのサイトには続けられていた、孤独に遭難した船から家族や親しい友人に向けて書かれたものが、時を経て見知らぬ人の住む浜辺に流れ着き、偶然かつ必然に壜を拾った者が読者になるという意味が込められているのです。マンデリシュタームの言葉を受け取った私はまさに投壜通信の読者であり、今度は私自身がその発信者になりたいと思っていました。そして有難いことに、今やブログやツイッター等で誰もが簡単に投壜通信の発信者であり同時に受信者となることができます。しかしウェブというフラットな波においては、一見、遭難などあり得ないはずでいながら、あのメデューズ号の筏のように膨大で広大な情報波に再び遭難し、つまり小さなその壜まで呑み込まれ、先立っていった同乗者の死体を食べなければ(あるいは間引きし食糧として確保しなければ)生き残れない、手軽さから得られる当初の期待とは裏腹に、投壜通信など無化された環境に思えてきてしまうのです(そして現代アートの世界でも、ネットは危険でもあると言っていたクリスチャン・ボルタンスキーが投壜通信に触れていたことに、私はリンクしたのです)、と「不可能な人生」には書かれていた。結局、私は生きた投壜通信ではなく、仮死の投壜通信として、因果律などない任意で連想的なしかし薄い記憶を、掬い出そうとしているのかもしれません。何のためにそんなことをするのかという問いには、最近それらしい応えを見つけました、「対抗記念碑」という考え方です。人々が重ね書き(パリンプセスト)するように打ち立ててきた「無自覚な歴史」という記念碑に対する「対抗記念碑」です。とは言うものの、それはあまりにも無力で、ほとんど何も対抗できない空元気みたいなものですが、と「不可能な人生」には書かれていた。

 

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